私は運動音痴です

・私は運動ができない
私はものすごく運動音痴だ。どのぐらいっていうかっていうと、義務教育の体育の授業でやらされるもの全てなにひとつ出来たことがない。跳び箱も鉄棒も縄跳びもバスケットボールもバレーボールもテニスも組み体操もハードルも、なにひとつこなすことすらできなかった。走りも遅い。体育の授業の最大の罪は、私のように「できない」組に対して何のアプローチもしてこない点だと思う。数学や英語の授業なら、「単語を憶えよう」とか、何らかのアプローチを示してくるけれど体育はとにかくなんにもない。一斉にクラスメートの前で披露して、できる組は「すごーい」って言われて、できない組は「きもーい」って言われるだけだ。今で言う陽キャ陰キャの組み分けを色濃くするだけの時間でしかない。できない組の中でもとびきりできない私は体育教師に「ちゃんとやれ」と言われ続け、そのたびに自尊心をがんがん減らされた。やれと言われてやって、できてないと皆の前で言われるだけ。この繰り返しに嫌気がさした私はもう中学生になるといかにして体育から「逃げる」ということでしか考えられなくなった。体育祭の準備もさぼった。準備段階で出たって、「ちゃんとやれ」と言われるだけ、だから遅刻して朝登校した。私がいなくなることで、勝てる要素が増えてよかったじゃんと思っていた。しかしいつしか誰かが担任にちくり、クラスメートの前で「お前ちゃんと練習に出ろよ!」と怒られた。面倒くさかったので次の日からちゃんと練習に出たが、出たら出たで、「ちゃんとやれよ」の嵐が沸き起こった。出たら言われ、出なかったら言われ、一体どうすればいいんだ。私にとって学校に通っていた時間は全て、逃亡者のように何かに追われていた。どこに逃げたらいい?といつも頭で考えていた。戦闘本能のスイッチがいつもついている状態で活きていたのでストレスレベルはかなり高かった。中学校時代の担任も大嫌いだった。その人は最悪なことに体育教師で、できない組に対して本当になんのアプローチもないのに、逃げる私に対して少し優しい言葉をかけるだけだった。もうほっといてほしかった。体育が、運動が出来るようになりたいと願ったこともなかった。勉強は嫌いじゃなかったのに、体育とか協調性がしんどすぎて(体育できない組へのあたりは強いのに対等に仲良くとか無理な気がした)学校へ行きたくなかった。勉強したいのに、進学したいのに、そういうことが一々煩わしくてこれからの人生ずっと苦しいのかと絶望的だった。学校を卒業したら体育なんてないですよ、と一度カウンセラーに言われたことがある。運動も勉強も出来ないし、協調性もないから友達もいない、何もできる気がしないと高校卒業後居場所がなくなったときそう私はカウンセリングの時間こぼしたのだ。学校を卒業したら体育なんてない。それは事実だ。でも体育の時間でひねり潰した自尊心は一体どうすればいいのか今でも分からない。皆の前で披露して笑われたことをが今でも私の精神に根深く貫いている。笑われるくらいならやりたくない、と古い傷がよく日常生活で疼いて問題を大きくすることがよくある。今の私は努力した上で失敗することが怖いので努力を避けることが多い。努力したって人並みにすらなれないならもうやらないほうがいい、と考えてしまう。
大学受験もろくにできなかったし、そのまま浪人も数年やった。もはや結果が出ない状況が安心できるレベルになってしまった。今でも体育の授業はあんな感じのままなんだろうか。いじめ問題よりよっぽど質が悪い。ブラック校則より表に出ない。運動を身につけさせたくてあんな時間を使っているなんて信じられない。体育が嫌すぎて学校が嫌いになった人って多いんじゃないかと思う。体育が嫌いで学校に行けなくなってしまったら、色々と本末転倒じゃないのか(上手く言えない・・・)。
こんなに体育への呪詛が溜まっている私だが、現在の趣味はジョギングだ。学校に行かなくなって引きこもっていたある日突然、「走りたい」と思った。なので走った。その気持ちよさがたまらず、もう7年はずっと走っている。多いときは週3回、1回につき8kmは走る。最初は「痩せたい」とかちゃらちゃらした理由だったが、当時は引きこもっていたので身体が発散の瞬間を求めてうずうずしていた。あんなに体育の授業が大嫌いだったのに、今こんなにジョギングが続いているのは、考えてみるに何の見かえりも求めていないせいだと気付いた。多少のダイエット効果は期待しているものの、走ったからといって体重が減るかと言えばそうではなく、むしろ増えた。筋肉量の分重くなっているからだろうか。でも走っているときのすっきりする感じは他に得難い。走っているときの空っぽになれる瞬間がたまらない。あのすっきりする感じを自分に与えることができる。走りが早くなりたいわけでも、腹筋を割りたいわけでもない。でも今回も走り終わったという瞬間を自分に贈ることができる。一人で走っているから、誰にも文句も言われない。これが欲しかったんだ、と初めて走ったとき悟った。笑われたくなかっただけで、本当は運動したかったのかも知れない。こういう運動音痴な人を救う体育のプログラムがあったらいいのに。私みたいに傷を負った子を増やしたくない。コロナ禍も体育の授業はやっているのだろうか。運動音痴な子どもを救いたいと願いながら、どうすれば・・・と堂々巡りな思考にたまに耽る。