何かが生まれ 何かが死に そしていつも通りの明日

私の誕生日にある芸能人が自殺した。その日は4年前にもある韓国男アイドルの方が自殺した。ファンだと言えるほど知っている人ではなかったけれども、私がひとつ歳をとるたびに彼らのことは思い出すはずだ。一緒に歳を取るはずの不在に気付かされる日にもなる。
私は普段、自分の不甲斐なさに気付くごとに「死にたい」と呟きそうになる。なんて思い通りにならないんだろう、自分以外の人は何も考えず簡単にできることが私にはできていない・・・そうやって、深く自分を沈めてしまいたくなる。死にたいなあ、と毎日のように考えてきて数年たったころ、この「死にたい」とは一体なんなんだろうと省みるようになった。本当に死にたいのなら今すぐ屋上やホームから身投げすればいいし、首を吊ってもいい。芸能人が自死を選んだ後に思うのはいつも、「死んだ人と死なない私の違いって何?」ということだ。
心理学者である河合隼雄は『こころの処方箋』で<象徴的な死>について語る部分がある。河合隼雄は『こころの処方箋』(1998)で、自身が実際に患者を通して得た経験から、「象徴的な死」というものが人間には備わっているとしている。精神的な死を経て自己再生したのではないかと思うような劇的な変化が起こるさまは河合は経験しているという。
誰でも、人間は生まれ変わるために、死ななくてはならない場面が訪れる。しかし、それは第三者として実際に自殺に向かわないようにしながら、かつ、自殺をとめようと熱心に援助してもいけない。自殺に向かう気持ちは肉体的な死を意味する反面、「生まれ変わろう」という気持ち、精神的な死の現れも内包している。河合は自身のような医療従事者が気に留めるべきなのは、あくまでも象徴的な「死と再生」へと治療を進めること、そして実際の自殺を避けようとしながら援助することであると言う。

自殺した芸能人は真っ先に家庭環境などの情報を辿られる。しかし、「幼少期の不安定な環境はその後も影響を及ぼす」というのは残酷な真実だ。心理学では随分それが浸透している。成人を過ぎたら自己責任というけれど、幼少期はいつも持ち歩いているということを皆はちゃんと理解しているのだろうか。幼少期は取り出し不可なのだ。
私の前に現れて輝き、さっと消える姿は本当に星のようだと有名人の自死のニュースを聞くたびに思う。しかし、星は最終的に燃え尽きる運命にある。彼らが僅かでも希望を持って死んでいったことを願う。

私は明日もくだらないことで悩み、ちゃんと老けていっていつか燃え尽きたい。